コンビニとの出会い
《昭和46年、取締役に就任。スーパー出店予定地の地元説明会に出向くようになる》
商店街はスーパーが出てくると存続できなくなると猛反対する。地元選出の国会議員が出てきたこともあった。スーパーが出店した地域では商店街のお店が倒産している、自分たちは被害者だという言い分で、対立はひどかった。
僕は倒産する商店街のお店を見ていて、時代がこれだけ変化しているのに、全く変わらずに旧態依然としている。消費者の嗜好(しこう)は変わっているのに、時代の変化に対応した小型店になっていないからじゃないかと思っていた。
《総合スーパーという業態そのものは米国の大型スーパーを手本にしたもので、スーパー各社は米国視察を頻繁に行っていた》
当時のダイエーも西友も分かりやすく言えば、海外スーパーのまねだよ。だからみんな視察に行って研修していた。
われわれも海外研修に行った、僕が引き連れてね。アメリカ西海岸のサンフランシスコやロサンゼルスをバスでまわって、途中に大型スーパーがあると見学する。米国とかヨーロッパは研修で何十回も行ったよ。
《米国での研修中、移動休憩で道路わきの小型店に立ち寄った。数字の「7」に「ELEVEn」の文字を重ねた、見慣れない看板のお店だった》
スーパーを小型にした、食品や雑貨が並んでいる店だった。米国には大型ショッピングセンターがあって、スーパーがあって、小型店、個人商店があった。共存していたんだ。
《米国のこの小型店は「コンビニエンスストア」と呼ばれ、セブン-イレブンが全米4千店のチェーン網を持っていると帰国後に知る。商店街の商店の生産性の低さに疑問を持っていたこともあり、このコンビニエンスストアという形態を日本へ持ち込むことを提案した》
日本の商店街では小売店は金物屋とか、菓子屋という「何屋さん」と言っていたが、そういう時代ではない、と自然に考えた。小型店は小型店として生きる道があって、共存できる形にしなきゃいけないと。
《店舗営業の経験がない自身の提案に対し、社内は反対の嵐。オーナー社長の伊藤雅俊氏も同じだった》
日本は、ダイエーの中内(功)さん、西友の堤(清二)さん、そしてうちのオーナー(伊藤氏)も、小型店の時代は終わったという考えだった。しかし、僕はなんでみんな反対するんだろうと思っていた。(商店街が衰弱していて)困っているのに。僕は役員(取締役)だったけれど一社員だから、オーナーには「大型店と小型店の共存ができないことはない。大型店だけで全てをまかなうことはできませんよ。米国も欧州もそうでしょう? 日本だってそうなりますよ」と話した。かっこよく言えば、熱意を持って説得したということかな。
《イトーヨーカ堂の伊藤雅俊社長ら経営陣の了解を取り付け、アメリカのコンビニエンスストア「セブン-イレブン」の国内展開を目指し、運営するサウスランドとの交渉に入った。初接触は昭和47年で、翌年にはサウスランド経営陣にプレゼンテーションを行った。同社の日本市場の調査後、6月から日本展開に向けた提携交渉が始まった》
サウスランドからの最初の提示は、事業は合弁会社が行い、国内展開は東日本のみ、出店数は8年間で2千店というものだった。彼らは最初、日本に出店する気はなかった。米国に多数のコンビニがあるからね。それに、日本全体で展開する力はイトーヨーカ堂にはないだろう、と思っていたようだ。だから、「イトーヨーカ堂がやるなら東日本だけに限る。西日本は、分からないけれどダイエーさんに」とか、思っていたんでしょう。だけど僕は全国でやりたい、出店も8年で1200店を主張した。ヨーカ堂の独自子会社で展開することも含め、ここは粘って認めてもらった。
《難航したのはロイヤルティー(権利利用料)の比率だった》
この頃のサウスランドは、セブン-イレブンの米国内のフランチャイズ(FC)店に対して、売上高の1%のロイヤルティーを取っていた。われわれに対する条件も、米国と同じ売上高の1%というもので、それは高すぎると考えていた。というのも、日本の小売業は当時、売上高の2~3%が最終利益で、イトーヨーカ堂の税引き前利益は売上高の3・8%。そんな状況で1%を払うというのでは事業が成立しない。僕は0・5%を主張した。
0・5%と1%。それはもう、けんかのような交渉だよ。サウスランドはカナダなどの地域FCに対しても1%を取っていたからね。僕はね、「(1%を取っていたのは)英語の通じる英語圏や陸続きの地域でしょう。日本は離れている」とあんまり論理的ではないんだけど、そういう主張もした。他にも「この事業をなんとしても成功させたい、ロイヤルティーを下げても事業が成功すれば目的に沿うはず」と主張した。決裂覚悟で交渉した結果、何とか譲歩してもらって0・6%で妥結した。サウスランドはその後の日本での発展ぶりにびっくりしていたな。日本でいろんなノウハウ、優れたものを作ったからね。
《その年の11月30日、コンビニ事業を日本で展開する技術導入のための契約が交わされた。契約後、サウスランドの研修センターでの研修に参加するが、その内容にあぜんとすることになる》
いやもう、しまったと思ったよね。研修内容があまりに初歩的なことばかりで、まるで素人集団。これは失敗だと。僕は米国のセブン-イレブンに対し、小型店として大型店がある場所でも存続する点に魅力を感じていた。それには確かなノウハウがあるはずと考えていたが、それはこちらの思い込みだった。
実際に提携して、研修で27冊の経営マニュアルが開示されたが、ノウハウというものはなく、レジの打ち方、人の採用の仕方などの説明ばかり。冗談じゃないよ、と感じた。最終的に取り入れたのは、本部と加盟店の間で粗利益を分配する会計システムくらいだった。
セブンイレブン1号店
《昭和48年11月、アメリカのサウスランドとの激しい交渉を重ねた末、コンビニエンスストアチェーン「セブン-イレブン」の国内独占展開権を確保した。ところが、開示されたマニュアルには期待していた小型店の運営ノウハウらしきものはなく、提携は失敗だったと愕然(がくぜん)とする》
正式契約の10日前に、セブン-イレブンを国内で展開するための新会社「ヨークセブン」(後のセブン-イレブン・ジャパン)を設立した。業務開発責任者として関わったので、経営まではやるつもりはなかった。ただイトーヨーカ堂内で猛反対だったこの事業をやる人はいない。伊藤(雅俊)社長から「言い出しっぺの君がやりなさい」と言われ、引き受けることになった。まずは社員を集めた。イトーヨーカ堂からの転籍組のほか、新聞に募集広告を出して採用したが、ほとんどが小売業の未経験者だった。
サウスランドのコンビニ運営をそのまま日本でやるわけにはいかない。物流を見ても、米国はメーカーから大量に商品を買い付けて自社倉庫に入れておき、それをフランチャイズ(FC)店に小出しにしている。日本には問屋があって、そこから商品が店に届く。運営マニュアルを研究していくうちに、これは(そのままでは)無理だと実感した。
《暗中模索が続くなか、東京・豊洲(江東区)の酒類販売店を経営しているという人から手紙が来た。若くして家業を継いだこの経営者は、イトーヨーカ堂がコンビニ事業を始めるとの新聞記事を見て興味を抱き、連絡してきたという》
経営者は山本憲司さんという方で、「自分にやらせてほしい」ということだった。会ってみると弱冠23歳の若者で、経営する酒屋はそれなりにもうかってはいるが、このままでいいんだろうかと考えていたという。僕が考えていたのは、大型店と小型店の併存・共存だったから、山本さんの申し出は渡りに船だと思ってね。1号店は山本さんの店で、と思ったんだ。
みんなは反対したよ。米国のセブン-イレブンは、店をこちらが作り、そこにオペレーションする人を採用してFC契約を結ぶやり方だった。だから自分たちも実験店から商店街に展開しようと。僕は違った。山本さんがやりたいと言ってくれたことで、場所と建物と人(従業員)はFC側にまかせ、商品を仕入れて納品することと経営のノウハウを与えることが本部の役割だと、割り切れたんだ。
《山本さんと顔を合わせたのは昭和49年1月。その後、実質3カ月の準備期間で酒屋をコンビニにするための店内改装や、3千品目に及ぶ商品の選択を行った。山本さんの酒屋がコンビニとなり、セブン-イレブン1号店として開店したのは同年5月15日、最初のお客さんがカウンター横にあったサングラスを買っていったことが忘れられないという》
セブン-イレブンが成功した秘訣(ひけつ)は、当時の親会社のイトーヨーカ堂にお金がなかったから(笑)。これは本当だよ。だから商店街の酒屋さんとかと手を組んで広げていった。これは海外にはないシステムで、世界で初めてのこと。コンビニの店舗開発は既存の商店がくら替えしていくことと思われているが、そうではない。資金がなくてやむなく手を組んで始めたことなんだ。
《昭和49年5月、新たな小売業態のコンビニエンスストア、セブン-イレブン1号店を東京都江東区に誕生させた。個人商店規模の店内に3千品目もの商品が並ぶ、これまでにない店舗だった》
卸売業者が商品をどんどん店に持ってくる。1箱でいいのに、2箱、3箱と持ってくるから、在庫が積みあがって(店長など)自分たちの居場所がなくなってしまっていると連絡があった。
当時の商慣習では、どの商品でも仕入れ時の最小単位(ロット)は多くて、売り切らないと次の仕入れができなかった。だから売れる商品は欠品し、売れない商品は在庫として積みあがる。商品点数が多くて狭小な店舗で、従来の商慣習のままで始めたから在庫管理に問題が出た。在庫をどうすればいいのか、われわれの考えが及んでいなかったのが原因だった。
それで仕入れロットを小さくした上で配送してもらう「小口配送」をお願いした。不良在庫の山を作らないためには、そうするしかなかった。今になってみればどうってことないことに聞こえるだろうけれど、当時とすればとんでもないお願いごと。説得して、徐々に何とか引き受けてもらった。
《チェーン展開に向けた店舗開発では、セブン-イレブン独自ともいわれる、地域内に集中して複数店舗を展開する「高密度多店舗出店(ドミナント)」戦略が誕生したのもこの頃だ》
新店舗の開発担当者には江東区から一歩も出ないように指示をした。世の中には知られていない店だったから、限られた地域に集中して店があれば地域内の認知度は高まる。さらにエリアを集中して複数の店舗があれば、小口配送もしやすくなる。1号店が酒屋さんからの転換だったし、最初は酒屋を中心に回ったが知名度もなくて相手にされない。店舗開発の担当者はかなりつらい思いをしていたが、そこは変えなかった。
《並行して神奈川県や福島県など東京都外にも少しずつ店舗を開発していった。米国のやり方に倣い、年中無休・24時間営業も視野に入れていた》
24時間営業は、米国のセブン-イレブンが既にやっていたことだった。だけどね、米国には4千の店があるが、強盗に入られて銃殺された店長もいると。僕はこの話を聞いてショックを受けた。今でもこの話を聞いたときの衝撃は鮮明に覚えている。米国では24時間のニーズがあるが、日本ではどうか。それを知りたいが、東京都内でテストをやってもあまり参考にはならないと考えた。なので、地方から始めてみようと、福島県郡山市の「セブン-イレブン虎丸店」で最初に24時間営業をやってみた。
(深夜帯の)最初のお客さん? 午前2時ごろ、小学生と母親が来店して、文房具、鉛筆だったか筆箱だったかを買っていったと言うんだ。その方々が最初じゃないかな。おかげで日本でも通じる、(24時間開いている店が)必要とされているんだなと思った。
《虎丸店が24時間営業になったのは昭和50年6月のこと。また、セブン-イレブン100店達成はそれから1年後の51年5月。1号店開業から2年がたったころだった》