生きるは作業のつみかさね

作業をすれば元気になれる!作業療法ノススメ。

セブン&アイHD名誉顧問 鈴木敏文(すずきとしふみ)さん  産経新聞「話の肖像画」より①~③

 

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セブンイレブン nanaco

生い立ち~学生時代

《平成28年4月7日、流通大手のセブン&アイ・ホールディングスは予定していた。

決算会見をキャンセルした。代わりに開かれたのが、会長兼最高経営責任者だった自身の退任会見だった。日本にコンビニエンスストア文化を生み出したカリスマ経営者の電撃退任の理由は、セブン-イレブン・ジャパンの次期社長人事。自身が提案した社長交代案が取締役会で否決された。よもやの展開だった》

 辞めることは僕一人で決断した。(創業家の)伊藤(雅俊)名誉会長もまさか辞めるとは思っていなかった。僕が身を引くとは、ね。

 「辞めろ」と誰一人として言っていたわけじゃない。みんな、びっくりしていたくらいだから。辞めたことが良かったか悪かったかは、後で判断してくれればいいと思っている。

 あのときはもう80歳を過ぎていて、いつまでも(経営を)できるわけじゃない。後続をきちんとしなくちゃいけないという僕の提案が否決された。筋の通らない反対には承服できない、「じゃあ、やめるよ」と言ったんだ。人事というのは理屈ではないからね。

 《会見での発言を引用しながら、マスコミは翌日から“退任劇の内幕”を書き立てた。記事には「クーデター」「創業家との確執」などの見出しが躍っていた》

 それまでも反対されながら、いろんなことをやってきた。理屈が通る反対なら相手をきちんと説得すればいい。自分がやっていることが間違っているとされ、まったく賛成を得られないのなら、自分の責任だから引く。全てに対してそういう考えだった。内部抗争があったとか書かれていたけど、そんなものはないよ。「分かってないな」と思っていた。ただ、ある新聞社の中で1人だけ、ちゃんと分かっている記者がいた。他の新聞はみんな、又聞きだよ。

 

《翌月開かれた定時株主総会で24年ぶりのトップ交代が確定。自身は名誉顧問となり、4年後の今も都内の執務室に出勤する。新型コロナウイルスの感染が拡大する前は、面会や講演予定でスケジュールが埋まっていた》

 辞めた後、いろんな本が出た。3、4年経ってみないと結果は分からないと書いた人もいる。歴史がきちんと結論を出してくれる。僕が身を引いて良くなったのなら正しかったのだろうし、うまく行っていなければ僕が言っていたことが正しかった。それぞれ、みんなが判断することであって、僕がどうのこうの言うことじゃないよ。

 

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《昭和7年、長野県東部、坂城町の地主の家系に生まれた》

 父親は農協の組合長や町長を務めていて、家業は農家。人を多く雇い、田畑を貸していた。きょうだいは多くて、生まれたのは10人。僕が生まれる前に兄と姉が子供のころ亡くなったから、8人きょうだいで僕は7番目。母親は東京の女学校を出て、戦時中は婦人会などをやりながら、従業員を使って家事全般を切り盛りしていた。非常に勉強家でね。暇さえあれば原稿を書いたり、本を読んだり、地元放送局のラジオ番組に出たり。昔の田舎の文化人だった(笑)。

 教育熱心なんだけど、「働かざる者食うべからず」。朝起きてから必ず、庭掃除や家畜の鶏の餌やりとか。しつけの一環で厳しくさせられてました。

 《多くの使用人に囲まれているが、極度のあがり症で引っ込み思案な性格だった》

 人前に出て話をするとか、学校の授業で先生に当てられて、本を音読するのは苦手だった。家では教科書がすらすら読めても、学校ではあがっちゃってね、十分に声が出ない。他のきょうだいはそういうことは平気だったけど、僕だけ引っ込み思案な性格だった。

 それと上のきょうだいたちは足が速くて、僕はどちらかというと足が遅い。割と背が高いのに足が遅いとか、「橋の下で拾われてきた子」とからかわれたりしてね、落ち込んでいたこともある。

 《20年、旧制上田中学(現・県立上田高)の受験に失敗。小県蚕業(ちいさがたさんぎょう)学校(現・県立上田東高)へ進学した》

 口頭試問であがっちゃった。先に試問を受けた小学校の同級生たちが教室の中で僕の様子を見ていて、「なんで答えなかったんだ」と後で言われたくらい。あがってしまって何を聞かれてるのか、十分理解できなかった。先生も家族も、受験に失敗するとは思ってなかった。小学校高等科在籍中に終戦となり、農家だったので「これからは農業と養蚕の時代だ」と思って、伝統ある養蚕が中心の学校を選び、養蚕教師の免許も取った。旧制から新制に教育制度も変わり、僕は中学と高校の6年間、同じ学校に通った。

高校に進んだ頃には「もう農業じゃないな」と思い始めていた。時代が変わってきた。卒業生は上田蚕糸専門学校(現・信州大繊維学部)に進むのがこれまでのコースだったが、同窓生は普通の大学へ進学するようになっていた。戦後の混乱期で優秀な人たちが入学していたから、東京外語大や東京教育大(現・筑波大)、東京商科大(現・一橋大)とか、いわゆる旧制中学から進むような大学に受かっていったね。

 《自身は中央大経済学部へ進んだ》

 父親が公職に就いていたから、代議士や県会議員がよくうちへ来ていた。それで影響されてね。将来、政治家になりたいなと。あがり症を克服しようと高校では弁論部にも入った。

 地元選出の衆院議員で両親と親しかった井出一太郎さん(後の三木武夫内閣の官房長官)から「政治家志望なら経済を勉強しておかないとだめだよ」と言われ、それで経済学部に進んだんだ。

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《町長だった父親のもとに集う政治家の影響を受け、将来は政治の道を歩もうと決意。代議士の「経済学を学べ」というアドバイスで昭和27年、中央大経済学部へ進学した》

 中央大では2年生から「経済学会」という近代経済学のゼミに入った。当時は学生運動が盛んで、自治会活動をやっている先輩に引っ張られて、2年生から全学自治会に出た。高校での生徒会長の経験や政治に関心を持っていたから適任と思われたらしい。

 自治会は左(派)と右(派)が常にけんかしている状況だった。僕は理屈が通らない議論が嫌いで、「おかしいじゃないか」とぶちあげたら、大学始まって以来初の2年生書記長に祭り上げられた。だからせっかく経済のゼミに入ったのに学生運動が主体になってしまった。従来、あがり症だったが、集会では演説もしていたから、聞き手の反応を見ながら話を進める即興力はここで鍛えられた。

 《自治会活動が家族に知られ、大目玉を食らう》

 ある日、親から「学生運動やるために学資を送ってるんじゃない」と叱られた。僕を知ってる中央大の先生が、軽井沢に行ったついでに実家に立ち寄った。どういうつもりだったのかな。元気に過ごしていると伝えたかったのか、学生運動のことを話したみたい。親からしたら、一生懸命勉強していると思っていたら、そんなことをやっていると(笑)。

 アルバイトはやったことがない。仕送りだけで生活しているのに「そんなことをするなら仕送りしない」と言われた。アルバイトしながらの学生生活は大変。学生運動は1年間だけで、全学自治会からも身を引いた。みんなからは「自治会は続けろ」「委員長もやれ」と相当言われたね。その後も自治会が混乱するたびに調整役を頼まれ、「黒幕」というあだ名もついた。

 《経済を学ぶため、3年生からは財テクも》

 

証券会社に入社した先輩から「株を買わないか」と勧められ、経済の勉強になるからと思ってやったんだ。仕送りに株を買うお金が入ってるわけじゃないから、いわゆる信用取引になった。仕手株もやった。一時は非常にもうかったが、がくんと下がって大きく損した。社会人になってヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に転職する少し前、手堅く安定的に管理できるといわれていたある大手電機メーカーの株を買ったけど、1年ほどで暴落してね。ためたもうけを吐き出した。それ以降、株は一切やってない。

 《政治への熱は冷め、就職活動に取り組もうとした矢先、自治会活動歴がマイナスに作用すると知る》

 自治会OBが政治家の秘書になっていて、それを見てると「大変な仕事だな、僕の性格には合わないな」と思った。そこで就職試験を受けようと考えていたら、学生運動をしていた学生は要注意人物リストに入っていると聞いた。普通の就職はできないと。

 マスコミ、新聞社は入社試験が受けられたけど、面接で落ちる。やはりあがり症でね、だめだった。父親のつてで出版社が採ってくれるはずだったけど、急に方針が変わり、その年の採用はゼロになった。その出版社の役員の紹介で、試験を受けられたのが東京出版販売(現・トーハン)だった。

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【プロフィル】鈴木敏文

 すずき・としふみ 昭和7年、長野県生まれ。中央大学経済学部卒。東京出版販売(現・トーハン)を経て38年、ヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)入社。53年、セブン-イレブン・ジャパン社長、平成4年に同社会長とイトーヨーカ堂社長を兼務。17年、グループ再編でセブン&アイ・ホールディングス会長兼CEO(最高経営責任者)。28年5月、同社名誉顧問。15年、勲一等瑞宝章受章。