- 老障介護の現実について
- 老障介護とは
- 親が年老いたあと、残された「知的障害者」はどう生きるのか
- 「老障介護」を孤立させないために
- 「老障介護」のいま──老いた障害者と、老いた親
- 障害者が働く軽作業所にて
- ある日突然、娘が知的障害に
- 「もう失神した子供を抱き上げられない」
- 知的障害児の親が持つ、希望と不安
- 子供から、あえて離れる選択も
- 「親亡きあとの、子の人生」
老障介護の現実について
障害がある人の年収は半数以上が100万円以下で、大人になっても親が同居して生活を支えているケースが6割近くにのぼるという調査結果がまとまりました。調査からは、親が年老いても障害がある子どもを介護し続ける「老障介護」の実態が浮かび上がってきます。
横浜市の福祉施設で働いている知的障害がある44歳の男性です。以前は木材店で働き、ひと月15万円ほどの収入がありましたが、ミスを繰り返し上司にも怒られ仕事が続けられなくなりました。
父親が亡くなり、いまは73歳の母親が、男性の介護をしながら2人で暮らしています。生活は母親の年金が頼りです。その後、市内の福祉施設で働いていますが給料は月に数千円。障害年金と合わせても年収は80万円ほどです。
母親はグループホームに入居させられないか検討していますが、近くのホームは空きがありません。自分が介護を出来なくなったらどうなるのか。将来に不安を感じています。母親は、「自分が年老いて面倒が見れなくなったらどうすればいいのか。収入も少なく、居場所もない。将来がとても不安です」と話しています。
障害者が働く施設などで作る団体が18歳
以上の障害者やその家族およそ1万人に行った調査結果です。障害者の年収は、56%が100万円以下。99%が200万円以下でした。
さらに、親と暮らしているのがおよそ57%に上った一方、アパートなどで1人暮らしをしている人はわずか8%。グループホームなどへの入所も15%にとどまりました。
調査した「きょうされん」は、収入が低く、グループホームなどの整備も進んでいないため、年老いた親が障害がある子どもを介護して支える「老障介護」が広がっていると分析しています。
きょうされんの藤井克徳 常務理事は、「地域で暮らすという国のスローガンは、家族負担によって成り立っている。障害者本人の収入確保とケアホームなどの整備を進め、自立した生活が送れる態勢を作ってほしい」と話しています。
以前から「老障介護」の問題について取材を続けてきました。経済的な基盤の弱さから自立できず、親への依存が強まる。さらに、その依存が長年続く中で、心理的にお互いが離れがたくなるという現実も見てきました。グループホームやケアホームもまだまだ足りず、取材した親から「私が子どもを看取りたい」という言葉を聞きました。親が子どもを看取ることを願ってしまう現実。家族依存が少しでも解消され、自立の道が早い時期から模索できる態勢作りが求められていると思います。
老障介護とは
老障介護とは、高齢の親が障がいのある子どもの介護をし続けること。本人は自立を望んでいても、就労先に恵まれない、受け入れ施設数が十分でない、などの理由で親と同居して世話をしてもらうケースは多いようです。18歳以上の障がい者やその家族およそ1万人が回答した共同作業所全国連絡会の調査(2012年発表)によると、障がいのある人は、ワーキングプアとされる年収200万以下の方が全体の99%、100万以下も56%に及びます。そのため、6割の人が親と同居せざるを得ない状況にあります。
親が年老いたあと、残された「知的障害者」はどう生きるのか
「老障介護」を孤立させないために
障害を持つ子どもは、多くの場合その親に世話をされて生きています。
親が元気なうちは子どもの面倒を見ることができても、親が歳を取ってきて体の自由が効かなくなる日はいつか必ずやってきます。そんな日が来たとき、知的障害者はどうやって生きていけばいいのか──。
「老障介護」のいま──老いた障害者と、老いた親
あなたの子どもに重い障害や病があったとき、あなたはそのことを受容できるでしょうか? このことは、私にとっても人生を通して考え続けなければならない難問です。この10月には、『いのちは輝く わが子の障害を受け入れるとき』(中央公論新社)という本を上梓しました。
この本は38個の話から成り立っています。幼い命の尊さと、それを守る難しさが主軸になっています。
この本で書ききれなかったことの一つに、障害児がやがて大人になり、そして高齢になったとき、親が子の生活をどう考えるかという問題があります。
私は、親と子が老々介護の関係に入りそうになっている障害者家族に話を聞いたことがあります。
医療的ケアまでは必要なくても、日常のサポートを必要とする障害者に対して、年老いた親の負担は年々増加していきます。ある調査によれば、障害者のおよそ60%は、親と同居しているそうです。つまり「老障介護」です。
障害者が独立していない理由はいくつかの要因が重なり合っていますが、私の経験上、「自分(親)が元気なうちはわが子を少しでも手もとに置いておきたい」という人が多いように感じます。
障害者が働く軽作業所にて
私が訪れたのは、千葉市内の民家の一部を改装した軽作業所です。20畳くらいの大きな部屋の中央に大型の作業机が置かれており、40歳前後の数名の知的障害者たちが、指導員の手伝いのもとで手を動かしています。
私はみんなに大きな声で挨拶をしましたが、誰からも返事はありませんでした。コミュニケーションの力が弱いのか、恥ずかしがっているのか、私には判然としませんでした。指導員の方が申し訳なさそうに、私に向かって苦笑を浮かべます。
別室では、後期高齢者といった感じの母親たちがテーブルに集まってお茶を飲んでいます。あらかじめ、「これまでの親子の生きてきた道を教えてください」とお願いしていたので、スムーズに話が出てきます。
39歳の男性の母親・Aさんに話を聞かせてもらいました。この男性が1歳になる前、喉頭蓋炎という重い感染症を引き起こし、窒息状態に陥りました。大学病院に搬送されると、その場で緊急気管切開になりました。しかしこの時すでに低酸素脳症で脳に重いダメージがありました。気管切開をし、のどにはカニューレ(L字型の樹脂製のチューブ)が差し込まれました。
Aさんはカニューレの交換の仕方を看護師から教わり、1日も欠かさず交換を続け、また、痰の吸引もできるようになりました。この生活が1年以上続き、子どもは心不全にも肺炎にもなりました。何度も命の危機を経験し、我が子の生命を諦めそうになったときもあったと言います。カニューレは1年で外れましたが、重い脳障害が残りました。
ある日突然、娘が知的障害に
43歳の女性の母親・Bさんの話も聞きました。娘さんの発症は12歳の冬。風邪を引いていた娘さんはある日突然意識を失って倒れました。市立病院へ運ばれましたが、昏睡が続きました。やがて意識が戻ってきましたが、記憶はあいまいでした。失語症になり、知能は3歳程度だと診断されました。
もっとも疑われた病気はインフルエンザ脳症でしたが、インフルエンザウイルスの感染は証明できず、結局原因不明の脳炎という診断になりました。病状は徐々に回復を見せて普通の学校にも通うようになりました。
しかし20歳の頃からてんかん発作を何度も起こすようになりました。静岡てんかん・神経医療センターに1年6ヵ月間入院しましたが、改善はありませんでした。Bさんはせめて子どもに仕事をしてほしいと思い、この作業所に出会いました。今でも作業中に時々てんかん発作が出ます。知能障害はそれほど重くありませんが、理解力が弱いとBさんは言います。
34歳の女性の母親・Cさんは静かな口調で話しはじめました。1ヵ月健診を受けたとき、医師から大学病院へ行くように指示されました。大学病院では血液を採られ、染色体検査を受けることになります。その結果、22番染色体が一部欠けていることが分かりました。医師からは、この子は知的障害になるだろうと言われました。小学校から特別支援養護学校へ通い、高等部を終えるとこの作業所にやって来ました。
千葉の田舎に育ったため、親族の目も厳しかったそうです。周囲からは、人目を避けてじっと家の中でおとなしくしていろという圧力が加わったといいます。年齢を重ねるごとに知能の低下が進んでいくように見えますが、内臓の奇形がないことが救いだとCさんは言います。
「もう失神した子供を抱き上げられない」
44歳の女性の母親・Dさんが語ります。子どもは生後4日で腸回転異常症という腸捻転を発症しました。現代の医療であれば一刻を争う手術です。しかし、当時の医療はそうではありませんでした。
手術は生後9日目におこなわれ、赤ちゃんは何度も死線をさまよいました。3500グラムの体重は2300グラムまで落ちました。何とか退院したものの、2歳3ヵ月でてんかん発作を起こしました。療育センターに行くと、この子の知能は5歳か6歳程度までにしかならないと宣告されました。ですがその後5歳、6歳を過ぎても知能の発達はそれなりにしっかりとしていたそうです。
学校の教師からは、「できる限り健常者と一緒に過ごしなさい」とアドバイスを受け、特別支援養護学校には行きませんでした。養鶏所の工場にも就職できました。仕事の後には同僚のおばさんたちとファミリー・レストランで食事をするなど、その娘なりの青春があったそうです。
しかし、年齢が上がるにつれて知能も下がり、てんかん発作も起きるようになりました。人の喋る言葉は理解できますが、それを相手に返すことはできません。養鶏所をやめて今はこの作業所で働いています。
Dさんが言います。
「歳を取って私らも体力が落ちていくし、子どもの体調も年々悪くなっていくんです。発作を起こして失神してしまうと、私の体力では娘を持ち上げられないんです。若いときは娘を抱き上げて布団まで運んだけど、今は無理です」
すると、脳炎からてんかんになった娘の母・Bさんも同調しました。
「重いんですよ、人間って。失神すると」
知的障害児の親が持つ、希望と不安
この母親たちの人生は、知的障害の子どもと一緒に歩んだ人生です。それが人生のすべてと言ってもいいかもしれません。その人生の中でもっとも良かったこと・もっとも悪かったことは何か、私は聞いてみました。
気管切開の息子の母・Aさんが言います。
「最良のことは、あの子のおかげで、たくさんの人と知り合えたことです。あの子が障害児じゃなければ、これほど多くの人と出会うことはなかったと思います」
「最悪のこと? うーん、なんでしょう。今までというより、やはりこれからのことですよね。私がさらに歳をとって、息子の面倒を見てやれなくなることです。
きょうだいはいますが、その子にはその子の生活がありますから、きょうだいに面倒を見させるつもりはありません。この先の不安が私にとっての最悪のことです」
「一番よかったのは、ここに来て仕事ができるようになったことです。長く自宅にいた時期もありました。働くことは絶対に無理だろうと思っていましたから、ここに来て働くことができたのは本当に喜びです。
一番の心配はやはり将来です。娘の上にはお姉ちゃんがいて、将来面倒を見ると言ってくれます。だけどどうなるか分かりませんから。それが不安ですね」
染色体異常をもった娘の母・Cさんも迷わず答えました。
「ここに来たことですね。それが本当に一番よかったことです。最悪だったことは……」
そこで言い淀みます。すると周りからいくつも声が飛びました。
「それまでの人間関係ですよ。彼女は田舎から来ている人だから」
「親戚やお姑さんから辛い思いをさせられたんだよ」
「お姑さんが悪いんじゃない。田舎が悪いんだ。都会と田舎じゃ物の考え方が違うから、お姑さんを責めてもしかたないよ」
子供から、あえて離れる選択も
腸回転異常症の手術の後でてんかんになった娘の母・Dさんが語ります。
「よかったこと……。私は小学校の担任の先生に救われました。私は娘にずっとついて歩いていかなければならない人生だと思っていました。ところが先生から『この子を成長させるには、この子から離れてください』って言われました。
私は、娘が小学2年のときに働きに出ました。学校の先生が大賛成してくれたからです。それが私の人生を決めたと思います。
私は定年まで必死になって働きました。だから娘が就職したときも、少々のことで音を上げるなときつく叱りましたよ。それがよかったと思っています。
ただ、この歳になって娘がここまで衰弱するとは思いませんでした。あのまま親子で歳を取れたらいいなあと思っていたんですが、その望みがなくなりました。それが最悪のことですかね」
作業所でリーダーを務める娘の母親・Eさんが言います。彼女には、心疾患や知的障害などの多発奇形で生まれてきた娘さんがいます。染色体の異常はありません。娘さんはもう50歳を超えています。
「極端に発育が悪く、やせた子でした。医師からも肺炎になったらおしまいですよと言われました。この子の将来のことを考えると、死なせたほうがこの子のためと考えたこともありました。でも、私は自分の娘を神様から与えられた運命と考えて、一生懸命育ててきました。親として成長できたし、多くの人と出会えました。だから私たち家族の人生は悪いものだとは思っていません」
Eさんが続けます。
「この先は確かに不安です。だから、親子で一緒に入れる施設が近くに欲しいんです。今まで一緒に生きてきたので、娘を施設に入れて一人にはしたくないのです。老人ホームと障害者の施設が一緒になった場所に2人で入りたいんです」
「親亡きあとの、子の人生」
私は母親たちの話を聞いて、障害者にとって重要なのは、やはり仲間と居場所だと痛感しました。障害のある人は孤立して生きることはできませんし、また、そういう生き方をしてはいけません。この作業所は住宅街の中にあり、近所の人たちとも交流を持っています。社会と共にあることが重要だと再認識しました。
障害児を持つ親は、必ず「親亡きあとの子の人生」に不安を持ちます。その心配は私も大変よく分かります。ただ、福祉の形態は年々変化をしつつあり、千葉県にも老人ホームと障害者の入所施設が隣接して建てられている所もあります。
また、昨年私が書いた『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』でも触れていますが、最近は、障害児の年齢がまだ小さいうちから、親たちが集まって将来グループホームを建設することも考えているそうです。ただ、建設には往々にして近隣住民の反対運動が起こることがあります。またグループホームを運営する福祉法人などを探すことが難題になります。
20歳になると障害者は障害の程度に応じて年額78万円から97万円くらいの障害基礎年金を受け取ることができます。そして入所施設に入っても、費用はこれらの金額で補うことができます。預貯金や共済などのお金があれば、成年後見人制度を使ってお金などの管理をしてもらったり、自分の趣味にお金をかけたりできます。
軽作業所に集まる母親たちが、将来の心配を持ちながらも、自分の子どもと過ごす毎日をとても大事にしていることが私には伝わってきました。また、私が話を聞いた全員のお子さんが、出生前診断では分からない病気・障害だったことも印象的でした。