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【失語症】バリトン歌手の原口隆一さんの紹介(産経新聞より)

失語症を克服した、バリトン歌手の原口隆一さんの紹介。

ピアノの調べとともに響くバリトンの重厚な低音。背筋を張り、腕を広げ、前を見据えるまなざしには力がみなぎっている。

バリトンとは

男声バステノールの中間の声域およびそれを受け持つ歌手。男声を音域で二分する場合はバスの側に分類される。

バリトン - Wikipedia

 

「病気を経験した今の方がいい声が出るんです」

自宅に併設されたスタジオで、歌手の原口隆一さんはそう笑顔で話すと、近くコンサートで披露するという日本歌曲を朗々と歌い上げた。ピアノや音響機器を備えたホームスタジオの壁には、オペラの舞台で衣装に身を包んで歌う姿のパネル写真などが並ぶ。迫力は今も写真と比べて遜色ない。

 

26年前に脳梗塞による失語症を発病。

 国内外のステージ活動や武蔵野音楽大で指導に明け暮れていた平成5年秋のこと。昼食後、うめき声を上げて自宅ベッドに横たわっていたのを妻の麗子さんと長女の川副晶子(かわぞえ・あきこ)さん(58)が発見した。当時の記憶はないが、「もう死ぬのかな」と言っていた。

声楽家として大切な「言葉」を失った。

一命は取り留めた。でも医師から名前を聞かれても答えられない。

声は出ても意味のある言葉が出てこない。「あいうえお」すら言えない。聞く方も理解できたのは簡単なあいさつ程度で、テレビを見ても音声が「ザー」という雑音で耳に入ってきた。

それでもこのときはまだ楽観的に考えていた。「そのうち朝起きたら治っているだろう」

病名は「解離性動脈瘤(かいりせいどうみゃくりゅう)」

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梗塞を起こしたのは左脳側頭葉の言語をつかさどる領域で、失語症と診断された。何が起こっているのか理解できなかった。

脳梗塞

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失語症

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失語症リハビリテーション

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退院後は失った言葉を一から覚え直した。ごみ箱は家族との意思疎通のために筆談で使った紙で、すぐいっぱいになった。覚えても覚えても記憶から言葉がこぼれ落ちる日々。

歌える曲も一つとしてない。

もどかしくて、手から血が出るほど何度も自室の壁をたたいた。ときには何時間も叫び、妻に「一緒に死んでくれないか」と切り出したこともあった。

 

「自分に歌を捨てることはできない」

この気持ちが死の淵から自身を救った。歌のおかげで今の自分がある。まもなく武蔵野音大から誘いを受けて仕事に復帰、学生らと接すると徐々に歌への情熱が沸き起こる。授業のやり方も忘れたが、学生が過去に自分の授業を録音したテープを聞いて指導方法を“学んだ”。

暗譜で何とか1曲は歌えるようになった発病から3年後。本格的に歌唱レッスンを始めた際、以前にも師事したことがある指導者から「(病気前と)全然声が変わらないね」と言われ、感激で涙が出た。「もう一度、舞台に立ちたい…」

 

再び舞台に上がった

発病から7年後、ついにリサイタルの舞台に上がった。必死に一から覚え直したシューベルトの歌曲「白鳥の歌」とアンコールの計20曲を歌い切った。

「燕尾(えんび)服に袖を通すと、自然と口に歌詞が上った」。鳴り響く観客席のスタンディングオベーション。「いろいろな思いがよぎった」。泣きながら手を振り返した。

その後は全国ツアーを行う傍ら、地元住民を対象に健康目的のレッスン講座を始めた。これまでプロのステージで活躍してきたが、身をもって声楽が健康に良い影響をもたらすことを実感していた。「声楽になじみのない人にも自分の歌を直接伝えられるようになった。病気にならなかったら考えもしなかったこと」

 

完治したわけではない

現在も完治したわけではなく、ときどき言葉に詰まる。だが、取材で過去を振り返る際に、当時を思い出して歌い出す姿はまるで舞台のよう。「80歳まで」と再び引退時期を定めているが、「声が出る限りは、もっと歌いたくなるかな」とも笑う。言葉を一度失ったからこそ、より長く、より多くの人に自分の歌を伝えたいと願っている。

 

原口隆一(はらぐち・りゅういち)

 昭和15年10月20日生まれ、78歳。鹿児島県・奄美大島出身。

武蔵野音楽大声楽科を卒業後、オーストリア政府給費生として国立ウィーンアカデミー音楽院に留学、卒業。

1968(昭和43)年、マリア・カナルス国際音楽コンクールで名誉賞。バリトン歌手として多くのリサイタルに加え、オペラ「魔笛」や「フィガロの結婚」など数々の舞台に立つ。一方、母校で助教授として後進の指導に当たり、後の著名な声楽家を多く指導。

 

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