産経新聞より。
東大病院に勤務する前田恵理子さん(42)は日々、がんに向き合っている。放射線科医として、そして「がん患者」として。
平成27年2月。自分の目で、肺に影を見つけた。手術の結果、肺の外側の膜に到達している進行がんと判明。5年生存率3割という数字を突き付けられた。
「自分がいなくなったら、4歳になったばかりの長男と夫はどうなるのか」という絶望感。それはすぐに、がんと闘う決意に変わった。「3割あればクリアできる。絶対に勝つ」
仕事をしている病院で治療を受ける。8~9月には、4回目の再発に対して放射線治療を受けた。闘いはまだ途上だが、「5年」まで半年を切っている。
がん以外の病ともつきあってきた。
父の転勤の都合で、小学5年から暮らしたオランダでぜんそくを発症。帰国直後の中3の1年間には発作が頻発、8回の入院を繰り返した。夏休みに救急車で呼吸が止まり、死線をさまよってからは、薬でコントロールができなくなった。
「酸欠で考えられない。生きているので精いっぱいだった」。編入した中高一貫の桐蔭学園(神奈川)での数学の順位は当初、760人中730位。それが高2のときには総合成績で学年トップになり、卒業まで譲らなかった。
努力の原動力は、医者になるという夢だった。
「小4のときに買ってもらった顕微鏡で自分の赤血球などを見て、言いようのない感動を覚えた」
東大医学部に現役で合格した。
だが、解剖用の脳を漬けるホルマリンや、多忙な臨床実習の影響で、在学中にぜんそくが悪化。30代まで約8年、重さ約5キロのボンベをカートでひき、酸素を吸入しながら日常生活を送ることになった。
それでも、やりたいことには妥協しなかった。
相棒のボンベを「ポチ」と呼んだ。外食、旅行、スポーツジムなど、物おじせずに外出した。バイオリンの奏者として、オーケストラの舞台にも数多く上がった。
医療の現場では、患者から親しみを持たれたり、応援されたりという思わぬ反応もあった。「ボンベを引いた私はどうみても患者さん側。他の医師らよりその気持ちが分かるという自負もあった」
医学部6年生のときに出版した解剖学の教科書などが評価され、東大総長賞を受賞した。
また、2006年には北米放射線学会で、世界中から寄せられた数千の教育展示の応募作から、当時日本人2人目となる最高賞に選ばれた。
30代前半、ボンベを手放した。そして、結婚。
6月には半生記「パッション 受難を情熱に変えて パート1」(医学と看護社)を出版。続編を書くことが前提のタイトルをつけた。
不屈の人生は、医師としてのメッセージでもある。
「病気になり、『何を、どこまでしていいのか』が分からずに引きこもり、つらさを感じている患者さんは多い。何かをあきらめずに私がやることで、救いを得る人もいる。自分の役割と思って、いろいろなことをどこまでできるかやってみたい。それは私だけができる医療です」
社会生活の継続が最善の結果生む
中学2年の夏、父の仕事の関係で3年半を過ごしたオランダから帰国した。インターナショナルスクールでエッセー、討論、実験漬けの毎日を過ごしていた私を待ち受けていたのは、大量演習、大量暗記を主体とする日本式の学習。ついていけず、過大なストレスを受けた。
さらに3年以上放置した家に生えたカビ、台風に秋雨前線、長い通学時間と満員電車が追い打ちをかける。オランダで発症した喘息(ぜんそく)が悪化するには十分すぎる環境だった。
現在では「喘息は気管支の炎症」と理解し、日常的に吸入ステロイドを用いて炎症を抑え、発作の予防を目指す。30年前は吸入ステロイド治療が確立されておらず、発作が起きてから対症療法を行うのみだった。
根本に対処しないから発作は繰り返す。せき込みから気管支がみるみる縮みあがって息が吐けなくなり、苦しくて一歩も動けなくなるような発作に度々襲われるようになった。
中学3年では命に関わるような大発作が何度も起こり、8回の入退院を繰り返した。帰国子女編入した中高一貫校では、中学3年は高校1年相当の勉強が始まる学年である。日本式の勉強にはまだ適応できておらず、出席日数はぎりぎりという状態で、数学ができずに内部進学のための高校受験に失敗した。
まえだ・えりこ 1977年、神奈川県生まれ。重い喘息を抱えながら東京大学医学部を卒業。東大病院で放射線科医となった後、2015年2月に肺がんと診断された。19年に闘病体験を振り返った「Passion 受難を情熱に変えて」を出版した。夫、長男の3人家族。
学問的興味から医学部を目指していた私は、高校受験失敗で開眼した。病気に甘えてすべきことをしないでいると、結局自分が痛い目にあう。私は不合格の日から、人が変わったように日本式数学の勉強を始めた。
喘息の状態は相変わらずだったが、自宅、入院中のベッド、救急外来で、毎日3時間の数学演習を自分に課した。数学だけではない。通信添削を病床に持ち込み、他教科にも磨きをかけた。高校3年の11月という大事な時期にも1カ月間の入院を余儀なくされたが、東京大学理科3類(医学部)に合格した。
入学後、吸入ステロイド治療をしっかりするようになっても私の喘息は手ごわく、在宅酸素療法が必要になった。臨床実習も、研修期間も、専門医試験も、酸素吸入をしながら乗り切ったが、酸素も離脱できた。
長い闘病でコツも体得した。最善の結果を生みだすには、社会生活を続けて気力と体力を充実させることが、何より重要ということだった。
まえだ・えりこさん 昭和52年4月、神奈川県秦野市出身。東大医学部を卒業し、平成17年から東大病院で放射線科特任助教として勤務。27年に発覚した肺がんの治療を受けながら、診療にあたる。CT検査などによる放射線被曝(ひばく)が子供らに及ぼす影響についての研究も行っている。夫、長男との3人家族。
ブログでも発信しています。
こんにちは。普段は仕事と家庭を両立させながら、大学で仕事をしているerikoです。 子どもが4歳の時に検診で自分で肺癌を見つけ、以来手術、化学療法、分子標的薬治療を受けてきたがんサバイバーでもあります。また、がんに限らず、東大入学前、入学後も、喘息で入退院を繰り返し様々な苦労をしてきました。 これまでの人生で様々な苦難がありましたが、苦難を燃えるような情熱に変えて生きてきました。 passionという言葉には、苦難と、情熱という2つの意味があります。私の生き方は、まさにpassionがキーワード。そこで、ブログの名前にもpassionとつけました。 仕事でも、家庭でも、熱く生きている私ですが、こちらのブログにはFacebookで連載中の闘病記をまとめて掲載しています。是非、お読みいただき、私のpassionを受けとって元気になっていただければと思います。