親の介護と自身の病気は、いつかやってくる可能性が高いが、いざその状況にならなければ対応方法の検討などの準備は難しい。
急速に進む高齢化の中で、自身も病気になる可能性が高くなる中、親の介護も同時に対応しなければならない状況は誰の身にも起こりうる。
予期せぬ出来事に見舞われた女性の紹介を下記にしたい。
女子起業家として活躍
30代の頃は、IT関連のベンチャーを立ち上げた。
業績も好調であったが、収束も早かった。
再起を果たしたのが50代。企業支援の会社を設立。
最初は自身の変化から
50代の起業から2年後、リンパ節にも転移した乳がんと診断された。
仕事を続けながらの闘病を決めたが、抗がん剤治療などの影響で、体重減少などにより体の自由が利かなくなった。
乳房の全摘手術を受けたが、数年後に再発した。
父親の脳梗塞と母親の認知症
自身の乳がんとの闘病の最中、父親が脳梗塞にて寝たきりになる。
母親も高齢であり、介護に疲れ果て、突如、字が書けなくなるなどの認知症の症状が出現した。
自身も闘病中、薬の副作用で痛みなどにより身体が動かず不安と恐怖の中にあった。
在宅での介護しかなかった
施設に入所することも考えたが高額であり、年金で賄うことは無理であった。
自身の治療費もねん出しなければならない。
「在宅介護は絶対に無理だ」と相談した病院関係者からは大反対されていた。
不安と恐怖の中、在宅介護の選択を迫られていた。
問題解決のための作業
「客観視」
置かれた状況を客観的にみて、対処法を探ろうと思った。
冷静さを奪う一番の原因が、自身の病気であった。
そこで、服薬による副作用の程度やその日の体調などを、ノートに記載した。
自分の状態を整理して理解できることで冷静になれた。主治医とのやり取りにも大いに役立ったという。
「支援を仰ぐ」
介護に関しては周囲に支援を仰いだ。
訪問診療スタッフとのやり取りでは、一人一人との意思疎通を図る必要性もあったが、連絡ノートを活用し乗り切った。
費用も年金の範囲内で納めることができた。
病気になって変わったこと
これまでは忙しい日々の中で常に5分先を見据え、自分をせかすように生きてきた。だが病気で体が“今”を必死に生きようとしていることを知り、「この時、この瞬間を丁寧に生きよう」と思い直した。
仕事は利益優先でなく、難局にある取引先にもとことん寄り添い、解決策を模索しようと考えるようになった。闘病中も契約を続けてくれた取引先や介護を支えてくれた人たちへの感謝が心の底に根付いている。
「がんと介護という大問題を一人で対処しなければならなくなったとき、正直、心労で死ぬのではないかと追い詰められた。でも、混乱する心を制御する術を知ったことで道が開けた。周囲に具体的な支援を要請し、協力を得られたことで進んでいけた」。
同じような境遇にある人たちへ、エールを送り続けている。
おおほ・そのい 昭和37年、東京都出身。玉川大卒。
平成9年にITセキュリティーベンチャーを起業したが、業績悪化で22年に破綻した。友人の助けを受け、企業顧問となった後、24年にビジネス支援会社「アルタパートナーズ」を設立。26年に乳がんを罹患(りかん)した。左乳房を全摘したが29年に局所再発。同時に両親の介護を経験した。
「がんと介護」について講演活動も行っている。