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【産経新聞連載】話の肖像画 元郵政相・八代英太(82)さんの紹介

元郵政相・八代英太さん。

タレント時代の事故で脊椎を損傷し、車いす生活に。

昭和52年の参院選で「車いすを国会に」をキャッチフレーズに初当選。

国会のバリアフリーに取り組み、郵政相を務めるなど衆参両院で28年間にわたって国政で活躍した。

令和元年7月の参院選では、自身以来となる車いすの国会議員が3人誕生した。

 

産経新聞にて車椅子ユーザーが政治の場で発言したパイオニアの記事連載の紹介。

 

 

 

(1)国会に誕生した「3人の後輩」

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僕が当選したときは、国会内はバリアだらけでしたね。

僕が当選しそうだとなったときに、参院事務局は日本初の車いす議員、大分県別府市議会議員、吉永栄治さんのところに視察に行ったみたいですから。

参院事務局の青写真を見せてもらいましたけど、どうにもならないと思いました。

車いすに乗ったことも触ったこともない人がバリアフリーを考えても、しょせん無理なんだなと思いましたね。

不自由な生活の中から得ている知恵というのは、非常に財源なんだという思いで、国会のバリアフリーに取り組んできましたね。

(聞き手 今仲信博)

 

 

(2)天下の裕次郎が「スカウト」

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(3)芸は身を…タレントで活躍

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(4)順風満帆、そして事故

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(5)エゴだった「懸命のリハビリ」

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<医師からは復帰に1、2年はかかるといわれたが、必死のリハビリによりその年の12月には退院できるまでに回復した。

退院が決まった後、同じ病院で入院していた男性からの言葉が、今も忘れられない>

 

「言いたいことがある」と、僕と同じような障害がある男性の患者さんから言われたので、話を聞きました。

彼は「エレベーターのない公営住宅の上の階に家族とともに住んでいる」と説明し、「あんたには帰る家があるけど、俺にはない。

俺が帰ると1+1がマイナス2になってしまう。

だから、いかにして病院に長くいるかと考えながら闘病しているんだ」と教えてくれました。

彼は病院に残るため、ケースワーカーから退院の勧告をされると、尿を濁らせて尿毒症になったり、車いすから転げ落ちて骨折などをしていたようです。

 

 

 

(6)「車いすを国会に」決意

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<一方で、全国の障害者団体との交流は継続していた。

ある日、全国脊髄損傷者連合会の仲間とともに国会見学を計画した。

申し込みをしたときに初めて、当時は車いすでは国会は傍聴できないということを知った>

 

 

その日の帰り、仲間と一緒にご飯を食べながら、腹をくくりました。

「これはもう、国会に障害がある当事者が入らなければだめだ」という思いに駆られました。

そして「車いすを国会に」をスローガンに戦おうと思ったのです。(聞き手 今仲信博) 

 

(7)「国会バリア」障害者の知恵で

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〈同年7月27日召集の臨時国会では一番乗りで初登院し、中央玄関から秘書ら4人に車いすごと担がれ、階段を上った。ただ、当選当初は心ない声も多く寄せられた〉

 

当時は「福祉はカネがかかる」とマスコミや自民党からも言われていました。

国会を改装するのに5億円ぐらいはかかると先行して報道した新聞もありました。

そうすると「お前一人のために俺の税金を何億も使うのは許せない」などの電話も多くありました。

「福祉にはカネがかかる」というイメージを僕が当選して作ってしまってはうまくない。

そこで知恵という財源を使うことで、安上がりにできるということを実証したいと参院事務局に提言しました。

 

(8)中曽根首相から「自民党で」

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選挙制度が変わり、もう「八代英太」個人では戦えなくなりました。

最初の6年の任期が終わって、「何とか続けなければ」という熱い思いがあり、障害のある仲間に「候補者になってくれ」と募りました。

全盲車いすとか、いろんな障害のある人を10人擁立しました。

供託金は私が全部払う、心配いらないよ、とね。

10人分の供託金数千万円は、知人のつてでほぼ全額をお借りしました。

 

党首として初めて挑んだ参院選では、福祉党の比例名簿1位で再選を果たした。

しかし、同党の議席は自身の1議席にとどまった。福祉を掲げて再選したが、野党では政策が実現できないというもどかしさも感じていた。

 

(9)与党の立場で問題提起

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福祉の政策が実現できない間にも、障害のある大勢の仲間が死んでいくわけですね。

何もしてあげられなくて死んでいった仲間を見ると、10年、20年後の国家論も大事だけど、障害者問題は喫緊の課題が多い。

自分が議席を持っている間は、時の権力の中に入って、虎穴に入らずんば虎子を得ずではないが、そういう思いで与党に身を置くことも大事だと思いました。

 

(10)衆院くら替えで初入閣

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衆院くら替え後は、衆院法務委員長などを経て、11年の小渕恵三第2次改造内閣で郵政相として初入閣。そして初の「車いす大臣」となった〉 

 

 

郵政相になることは、希望していました。

スクラップ・アンド・ビルドで、だんだんと山の中の銀行も出張所も消えうせていく。

しかし、島国の日本では、どこにでも郵便局はあったんです。そこを障害のある人たちの施設の拠点にしたいと思っていました。情報通信も郵政省は受け持っていましたから、パソコンがあれば、IT時代において障害のある人たちの新しい武器になる。

車いすを利用しながらパソコンで、米国の友人でも国内でも情報を互いに共有できて、情報化社会の中で生きていける。手が動かなくても、言葉でもパソコンは運用できますから。

新しい時代としてインターネットを重視することで、障害者の生活の武器になるという思いがありました。

郵便局に情報通信の窓口もおいてネットワーク化し、「どこに行けば車いすが借りられる」とか、「郵便局にいけば分かる」といった構想を描いていました。

 

(11)「俺に任せろ」は何だった

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(12)途上国選手の雄姿をパラで

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いろんな国の障害者は虐げられ、非常に差別されていて、特にアジアはそういう意味では障害者問題ということが世界のどの地域よりも立ち遅れていました。障害のある人たちを集め、スポーツと就労をテーマに教育を徹底的にやってきたんです。

 〈今夏、東京で開かれるパラリンピックには、特別な思いを持つ〉

「オリパラ」という表現を使うように、五輪とパラリンピックは一体的なものだという感じになっていますが、パラリンピックの周知はまだまだわずかだと思います。

参院車いすの議員が、3人誕生しました。バリアフリーが新たな課題にもなる中で、彼らは彼らなりの一つの大きなインパクトを与えたと思います。

そういうことも踏まえながら、パラリンピックが成功するように祈っています。