はじめに
15歳から39歳までの思春期と若年成人(Adolescent and Adult)を指すAYA世代。
AYA世代のがん患者には進学、就職、結婚、子育てなど中高年とは違った課題が存在する。
若年性乳がんの患者支援団体「ピンクリング」代表、御舩美絵さんについて調べました。
- はじめに
- 31歳のときに乳がんと診断される
- 気がかりなのは「子供が埋めるかどうか」
- 婚約者へ病気を伝える
- 左乳房を摘出する
- 妊孕性(にんようせい)について考える
- 妊孕性温存(にんようせいおんぞん)を提案される
- 「治療を終えたら子供のいる人生を歩みたい」
- 治療後女の子を授かる
- 「生きる力」と信じる
31歳のときに乳がんと診断される
診断の1年前に乳がんについての記事を書いた。生活情報誌のライターとして活躍していた。
セルフチェックしてみると、左乳房にしこりがみつかった。
すぐにクリニック受診。「乳腺症」の診断に安心。
その1年後。しこりが固くなり、結婚も決まっていたため再受診。
超音波検査や精査した結果、「乳がん」と診断された。
リンパ節転移なし。ステージ2A。
腫瘍の大きさは5~6センチ。
左乳房全部摘出。
気がかりなのは「子供が埋めるかどうか」
家族にがんに罹患(りかん)した人はいない。
年齢も若いから大丈夫と考えていた。
診断・告知にぞっとした。死も連想した。
結婚したらすぐに子供が欲しかった。
主治医の説明が唯一の希望だった
主治医の説明。
「治療を終えた後に出産する人はいますよ。」
婚約者へ病気を伝える
結婚式も迫っていたので、告知を受けた日に病気を伝えた。
資料を持つ手が震えた。
「結婚しなくてもいいんだよ」と言った。
彼は「大丈夫だから」と励ましてくれ、彼の家族の理解も得られた。
結婚式も予定通り行った。
しかし
「こんな私と一緒になって本当にいいのかな」という気持ちは消えなかった。
左乳房を摘出する
いつか自分の赤ちゃんに授乳したかったので、左乳房を失うことはなかなか受け入れられなかった。
乳房の再建手術を受ける予定だった。
しかし傷痕直視できなかった。
男性の胸みたいだった。
これでがんが自分の中からいなくなったという安心感はあった。
いままではがんの恐怖に向き合うのに精いっぱいだった。
妊娠、出産の可能性を残すことを考えるのは、手術が終わってのことだった。
妊孕性(にんようせい)について考える
妊孕性(にんようせい):妊娠する力。
がん治療のための化学療法や放射線療法では、生殖機能が損なわれることがある。
治療の選択肢だった抗がん剤には、閉経のリスクがあった。
自費診療による遺伝子検査(47万円)を受けた結果、抗がん剤には大きな効果がないことがわかった。
ホルモン治療を行うことに決めた。
ホルモン治療の悩みどころ
ホルモン治療の治療期間は5年間。
治療期間を終えると37歳。
加齢とともに妊娠の可能性が低くなることは知っていた。
また、ホルモン治療により卵巣機能の低下もゼロではないと説明を受けており心配だった。
妊孕性温存(にんようせいおんぞん)を提案される
「治療を終えたら子供のいる人生を歩みたい」
治療を遅らせるわけにはいかず、決断までの猶予期間は1か月だった。
将来子供が欲しい。
しかし、卵子を育てる薬が、がんに悪い影響を与える可能性もあった。
命と子供をてんびんにかけられているようで、なかなか答えが出なかった。
主治医から
「がんになった後の人生を考えて」
という言葉に、自分が目の前のがんだけを見ていたことに気づいた。
「治療を終えたら子供のいる人生を歩みたい」
妊孕性を温存することに決めた。
治療後女の子を授かる
治療終了後、「両親から受け継いだように、私も次の世代に命をつなぎたい」と子供を作ることを決めた。
流産
と順調ではなかったが、女の子を授かった。
「生きる力」と信じる
①仲間の存在を感じること
②先にがんになった方のその後の生き方を知ること
がんとともに生きる力になると信じている。
孤独に治療している人は多い。
同年代の仲間と出会い「一人じゃない」と思えた。
AYA世代特有の悩み(妊娠、出産、仕事、お金)に対する支援は不十分。
正確な情報を届け、
同世代の体験者が思いを共有する機会の提供に力を入れている。